志村澄子さんが平成17年9月12日,89歳にて逝去されました.やどかりの里の理事としてよりも,「茶の間のおばさん」として,長きに亘って親しまれてきた方でした.志村さんは53歳のときに,息子の発病により初めて精神科に足を踏み入れました.息子の回復を願って二人三脚をする中で,早くからこの病の回復には,「人と人との繋がりが大切である」という固い信念を持って活動してきました.自分の息子に限らず,同じ病で苦しんでいる方と共に活動したいという志村さんの姿勢は,昭和40年代,全国でも珍しかった自宅における作業所開催,デイケア開催と,一家族の情熱が専門家を動かし,それが昭和45年のやどかりの里創立につながりました.
やどかりの里は長い間,電話代も督促状が来るような,緊迫した財政的困難の中にありました.その中で志村さんは,地元に住みながらも偏見を恐れずに,知人,縁故を頼って,休みの日には寄付を集めに歩いていました.寄せられた寄付によって,初めて志村さんがそういう動きをしていることを知った職員がほとんどでした.目立つことの嫌いな方でした.
でも,いざという時は何事も恐れずに立ち向かう,「大正モガ」の潔さも持っていました.法律の改正によりやどかりの里が紆余曲折の末,社会復帰施設建設に踏み切った昭和62年,志村さんは途方もない資金集めに躊躇する職員を前に,「やってやれないことはないですよ」と谷中会長を支援する一言を投げかけ,それが今につながるやどかりの里を生み出しました.あらゆる局面で重要な役割を担いつつも,決して表に出ない方でした.
決断の早さの一方で,ゆっくりとした空間「茶の間」をいつの間にか作り上げていました.やどかりの里初期から,「茶の間」には多くの人が集まっていました.「茶の間」の空間で癒された人は,メンバー(当事者)に限らず,職員も訪問者も同様でした.まずはお茶を一杯振舞われ,日常的な何気ない会話がとびかい,その空間にいるだけで心が穏やかになっていく場所,そして時には家族,職員の相談場所でもありました.「茶の間」は不思議な要素を含む空間でした.時代により,それが6畳間から10畳間へと変化しましたが,そこに志村澄子という人間が存在することによって「やどかりの茶の間」が構成されていました.現代の時間の流れとは少し距離を置き,安心して己を語れる時空間を保障し,その中で自分を取り戻していく空間を,志村さんは意識せずに作り上げていきました.
「この病気は人と人との繋がりで治す」ことを実現する場として,30数年間維持し続けた空間が茶の間だったのです.
絶えることのない通夜の参列者を見て,志村さんは「私の役目は終わりましたよ」という言葉を穏やかな遺影から,静かに投げかけていたように思われました.
「壽室澄光信女」はまさに志村さんにふさわしい戒名でしょう.志村さん,本当にお疲れ様でした.そしてありがとうございました.